*ビデオテープの劣化の為、CD 音源とビデオ映像に、大きな「ズレ」が生じています。ビデオテープの方をご試聴ください。
[Medical Student plays Chopin] – No.2-
Chopin : Nocturne in C minor op.48-1
Masao Takahashi : Concertpianist, Bachelor of Medicine
髙橋真生(ピアニスト、医学学士)
「この曲が最も高貴なノクターンであるという事実は消しがたい。構想が巨大であるために、短い音楽劇のごとき感じをもようされる。Doppio movimente(Twice as fast 2倍の速さで)の箇所は劇的な興奮を強いる。これに競い合う曲はノクターン第7番op.27-1 cis-moll である。両曲とも英雄的な要素をもち、いずれもセンチメンタリズムから逃れており、偉大なるショパン、男性的なショパンの部類に属する」 by ハネカー
ハネカーのこの説明は妥当なところでしょう。
この曲を演奏するとき、個人的な感情、世俗的な感情は、一切、抱くべきではないと考えます。
客観的にこの音楽を捉えることが出来ているかを自問し、自己陶酔、自己満足に陥らないよう、常に冷静な判断と毅然とした精神が求められます。
これほどの音楽を前にしても、平常心を保つことが出来るかどうか?それが素人音楽愛好家とプロの音楽家の違いですが、まだ音楽院の一学生に過ぎなかった当時の私は、このような壮大な音楽に完全に支配されてしまい、自分を全く抑制できず、感情的になり過ぎています。
当時の私が心の中で聴いていたこの音楽は、私の演奏とは全く異なる音楽であり、私はこの音楽に恋い焦がれ、愛し過ぎていました。それは、悲劇のように「片想い」に終わり、「愛している」と「告白」することすら出来ず、私のこの演奏が現している通り、哀れな若きウェルテルの如く、絶望的な「大失恋」となりました。
私の恩師であるProf. Joo Ann Koh は、いつも素晴らしいアドバイスをして下さる方でした。
「全てを失った王のように弾きなさい。王だったという誇りと威厳、高貴さを持って」
とても短い言葉ですが、適切な表現であると思います。
しかし、当時、母だけの収入で、ホームレスと間違えられるような貧乏学生であった私に「貴族的」、「高貴」、「王の威厳」など、到底、理解出来るはずがなく、高級品を扱っている店に入れば、ドイツ語で「君に買える物は一つもない」と言われ、追い出されることが当り前であった私が「誇り」、「威厳」などを持てるはずもありません。
ピアノを調律してもらう金も無く、このピアノは、2月の氷点下のウィーンで放置されていたピアノで、更に、管理人さんの親切心から、ホールに暖房を入れて下さったことで、急激な温度変化により、ピアノがどうしようもない状態になってしまい、沈んだ鍵盤が、私の弾く速さに戻らず、ピアノと私の戦いになってしまいました。
この曲には、貴族的な気品、高貴さが求められるというのに、普段は500円以下のボロボロのワイシャツを着て、このときに履いている靴も穴だらけ、雨降りの日に外に出れば、靴の中に雨水が大量に入り、その水の重さで、靴が脱げてしまう、しかし、新しい靴を買う金など無かった当時の私には、到底、演奏できる曲ではなかったと思います。
その点、写真だけ見ても、貴族的な気品が漂い、内面的にも、貴族的で高貴な精神を備えていた「リパッティ」が、もし、この曲の録音を残してくれていたならば、ショパンとリパッティの高貴な二つの精神の「完璧な調和」を、現代に生きる私達でも感じることが出来たでしょう。
そして、これこそが、現代の優れた演奏家達が失ってしまったものであり、音楽が音楽ではなくなり、単なる「曲芸」になってしまったことを非常に残念に思います。
「曲芸」と「ヴィルトゥオーソ」とは全くの「別物」であり、「ヴィルトゥオーソ」の象徴とも言える「若き日のホロヴィッツ」の演奏には「感銘」しますが、人類史上においても「最大、最高」の「ピアノの曲芸師」である「ラン・ラン」の演奏が今の世界を支配していることは、「音楽の腐敗と崩壊の時代」に突入してしまったことを「示唆」しているのだと私は思います。
リパッティなら、どう解釈し、どう演奏していたか?
リパッティが生きた年齢を越えた今でも、リパッティを常に意識しています。
もし、リパッティが生きていた時代に、今の私が生きていたならば、私は音楽をきっぱりと捨て、リパッティを助けるために、「医学の研究」に没頭し、私の命と引き換えにでも、リパッティの命を助ける道を確実に選んでいたでしょう。
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