阿川弘之, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=123562 / CC BY SA 3.0
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阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年(大正9年)12月24日 – 2015年(平成27年)8月3日)は、日本の小説家、評論家。
広島県名誉県民。
日本芸術院会員。
日本李登輝友の会名誉会長。
文化勲章受章。
代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作(海軍提督三部作)『山本五十六』『米内光政』『井上成美』など。
法学者の阿川尚之は長男、タレント・エッセイストの阿川佐和子は長女。
自身は『私の履歴書』では、〔私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している。
阿川甲一の長男として広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町)に生まれた(本籍地は山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町)。
父と母の系統については#家族・親族を参照 偕行社附属済美小学校、広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高等学校を経て東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業。
卒業論文の表題は「志賀直哉」。
一種軍装の阿川弘之 1942年(昭和17年)9月海軍予備学生として海軍に入隊する。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務を命ぜられた。
大学在学中に中国語の単位を取ったことでわずかだが中国語ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。
中尉に進級した直後の1944年(昭和19年)8月「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。
1946年(昭和21年)2月「ポツダム大尉」という身分で、揚子江を上海へ下り、3月末博多へ上陸復員する。
広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされた故郷の街を見る。
家は丸焼けだったが、両親は無事だった。
実家の川向こうの牛田という町の、雨漏りのするボロ家にのがれて、中風の父親と、白内障の母親と甥にあたる若者と三人でひっそり暮らしていた。
志賀直哉に師事して小説を書く。
主な著作は『春の城』(読売文学賞)、『雲の墓標』、『山本五十六』(新潮社文学賞)、『米内光政』、『井上成美』(日本文学大賞)、『志賀直哉』(野間文芸賞、毎日出版文化賞)、『南蛮阿房列車』、『食味風々録』(読売文学賞)など。
1979年(昭和54年)、日本芸術院会員。
1999年(平成11年)、文化勲章受章。
阿川は1958年8月10日付の朝日新聞朝刊記事で東海道新幹線の建設計画に対して言及し、その中で「世界的には航空機と高速自動車道路の時代に入っている。1700億円も掛けて新幹線を建設するなら、その財源で国内航空路の拡充と高速自動車道路を建設すべきだ」や「新幹線が世界の三バカの仲間入りにならないように願いたい」と、東海道新幹線自体には反対した訳ではなかったものの、建設の慎重論を表明した。
しかし、この「三バカ」の言葉が独り歩きしてしまい、新幹線建設に対しての批判と取られてしまい、各方面から非難を浴びた。
後年にこれは「新幹線が世界の三バカになるかと思ったら、アレヨアレヨと言う間に世界一の優等生となった。」と発言し撤回している。
阿川は開業当日の1964年10月1日、週刊朝日に掲載する、東海道新幹線と航空機との乗り比べの記事を執筆する目的とした取材で東京と大阪との間を往復したが、その際、往路は東京駅8時発の新幹線ひかり5号、復路は大阪空港15時30発の日本航空コンベア880を利用した。
阿川は週刊朝日1964年10月18日号の記事で「100km/hを超した所かと思って確認したら既に180km/hに達していた。思ったよりスピード感がない」「機密がしっかりしているせいかデッキと客室の仕切にある手動ドアが開けにくい」などとコメントし、総合評価については「運賃で新幹線、乗り心地で飛行機」との評価をしている。
後年、自著『乗りもの紳士録』の中で、上記の「世界の三バカ」発言の件を同じ作家の広津和郎より指摘され苦言を呈されたことを表明した。
その中で、阿川は広津にこの件を国鉄総裁を経験したことのある磯崎叡に謝罪したことを伝えている。
なお、阿川は磯崎のことをニックネームの「ダッコちゃん」で呼称している。
ただし、阿川自身は新幹線を含めての鉄道ファンであり、…
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