※冒頭スピーチは同時通訳。日本語は左チャンネル、英語は右チャンネル
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外務省の「日米草の根平和交流招聘プログラム」で招待された第二次大戦中の米兵元戦争捕虜7人が記者会見を行った。
司会 露木茂 日本記者クラブ企画委員 
通訳 宇尾真理子 渡辺奈緒子(サイマル・インターナショナル)
外務省のホームページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html
日本記者クラブのページ
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2012/10/r00024957/

招聘された7名の前列右から
ダグラス・ノータム(Douglas Northam)
ジョージ・サマーズ・ジュニア(George R. Summers Jr.)
デービッド・ファーカー(David Farquhar)
ランドール・エドワーズ(Randall Edwards)
ジョン・リロイ・ミムズ(John Leroy Mims)
ロバート・アーハート(Robert Ehrhart)
ジョン・リアル(John Real)

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記者による会見リポート(日本記者クラブ会報2012年11月号に掲載)

バターン死の行進生存者の証言

 「『サムライ文化』は、『勝者がすべて』というものだった。その文化は『展示物』だけにして、日本は我々のような(捕虜を人道的に扱う)国になってほしい」
 太平洋戦争で日本軍の捕虜になり、虐待を受けた元米軍捕虜の言葉だ。3回目となった日本政府の招待で来日した元米軍捕虜は87歳から95歳までの7人。車椅子でやってきた人もいる。彼らのうち5人は、戦争初期フィリピンのバターン半島で起きた「バターン死の行進」の生存者だ。「バターン死の行進」では、日本軍の捕虜となった7万余の米兵と軍属が数十キロを歩かされ、マラリアや飢え・病気・虐待等で1割以上が死亡したとされる。
 「水もなく食べ物もなく65マイル(約100㌔メートル)歩かされた」「行進で遅れをとると殴られ、ついてゆけなくなると撃ち殺された。私は当時19歳で若かったので生き延びることができた」。記者会見での証言である。日本は、「捕虜取り扱い規則」で捕虜虐待を禁じ、日露戦争でも捕虜を丁重に扱っている。しかし、第二次大戦では「帝国軍人は俘虜たるは予期せざるもの」と捕虜になることは恥とし、その考え方が敵方の捕虜の扱いにも及び、殴ったり、反抗する捕虜は射殺するなど国際法を無視する行為があったという。
 「戦いをやめて武器を捨てた捕虜には、人道的扱いをする」。このジェントルマンシップは、戦時の捕虜の扱いにかぎらず、日頃から、日本人同士においても、外国人との付き合いにおいても、戦後の日本の民主主義が本物かどうかをためす尺度になるのであろう。  

山陽放送出身 原田 健男

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