*ビデオテープの劣化の為、CD 音源とビデオ映像に、大きな「ズレ」が生じています。ビデオテープの方をご試聴ください。
[Medical Student plays Chopin] -No.3-
Chopin : Ballade in F minor op.52
by Masao Takahashi : Concertpianist, Bachelor of Medicine
髙橋音楽事務所 代表 : 髙橋 真生 (ピアニスト、医学学士)
18th February, 2000
Ehrbar-Saal (Prayner Conservatorium) in Vienna
この曲を前にして、適切な言葉を用いることができるのは、ゲーテだけでしょう。
ハネカーは賞賛したかったのでしょうが、ショパンを自分と同じ「人間」として捉えていることが根底となっていること自体が大きな間違いであり、下記のような矛盾したことを書いてしまったのだろうと思います。
「これは最も瞑想的で情緒が充満しているときのショパンである。自己陶酔と圧迫された感情・・・(以後の文章は全く、理解不能の為、省略)」
瞑想とは「心を無」にすることです。
無となっている心に、情緒が充満するとは、果たして、どのような精神状態なのか?
精神医学を学んだ私には全く、理解できません。
「自己陶酔」とは素人音楽愛好家がすることです。私は24歳まで、全くの素人でしたので、自分の好きなように弾き、「何と美しい!」と自己陶酔の中で弾いていました。
自分に酔っている状態で、聴衆の心を動かすことは無理どころか、不快な想いをさせるだけですし、まして、このような大曲を作ることなど、決して、不可能なことです。
また、圧迫された感情を一瞬でも抱いてしまえば、私のこの演奏のように感情の爆発が起こり、その後は制御不能となります。
1841年以降のショパンの音楽を前にして、ショパンを「人間化」することは、キリストを人間だと言うことに近いでしょう。
キリストも肉体を持ち、ショパンのように、人を愛し、人の死に涙し、肉体の限界の苦しみの中で天に召されました。
ショパンも実生活では、親友の死を悲しみ、肉体は結核に侵され、苦しみながらも、サンドの愛を感じ、ショパンもサンドを愛していたのでしょう。
しかし、作曲するときのショパンの精神は、人間的な感情など、一切、抱いていなかったと、私は考えます。
神の言葉を語るときのキリストのように、音楽を生み出すショパンの心はこの世のものとは完全に切り離されていたように思います。
「現代の天才」として、私も信奉している「キーシン」ですら、ショパンの音楽を理解したい、というより、音楽の本質に「近付きたい」と、謙虚に努めています。
逆に言えば、「キーシンが天才である」からこそ、人間が神を完全に理解することは不可能だという事実と同様に、ショパンの音楽を完全に理解することなど出来ないと解るのでしょう。
キーシンのような天才すらをも「超える存在」、神にも人間にも分類できない存在があることに、あらゆる分野が進歩した現代に生きている私達はそろそろ気付くべきでしょう。
仮に現代の天才であるキーシンがこの曲を作曲し、最後まで書き終えることができたとしても、曲が完成した頃には、正気を失っているだろうと思います。
神でも人間でもない「預言者」モーゼは神の言葉を聞きました。「洗礼者」ヨハネも神の子であるキリストがこの世に与えられるということを神から聞きました。
ショパンも神の音楽、天国の音楽を聴ける存在であったのではないかと私は考えます。
神の音楽を聴くとき、実生活上の出来事や人間的な感情を抱くものでしょうか?
このバラード自体には触れず、当時、どういう状況で録音したのか、という私の経験のみを書こうと思っていましたが、ハネカーの言葉に反論せざるを得ませんでした。
このバラードを演奏するためには、自分の心を完全に制御できることが前提条件ですが、医学生から音楽学生になって、1年足らず、ショパンコンクールで演奏する全てのショパンの曲を練習することで、精一杯でしたから、心の余裕など、全く無かった私には、録音時間があと10分あったとしても、せいぜい、ミスタッチを減らす演奏しか出来なかったでしょう。
当時、付き合っていた女性が師事していたトイフルマイヤー教授は、私がこの演奏を終えた後、「何と素晴らしいバラードなんだ!」と興奮した様子でホールに入って来ました。ステージの私の所に来て、“Schade! schade!(残念、残念!)、何故、最後の和音を急いで弾いたんだ!君の楽譜を見せて」とトイフルマイヤー教授は私の楽譜を手に取り、「もう一度、演奏しなさい、私達は待ってるから」と何度も言って下さいましたが、私は断り、その後、しばらく教授と話し、無料でレッスンをするから、一度、来なさい、ただ、遊びに来るだけでもいいから、等々、今にして思えば、非常に光栄なお言葉を頂いたのですが、自分の演奏に愕然としていたこのときの私の心には、トイフルマイヤー教授の言葉が全く響かず、コートを着て、ホールを後にしました。この演奏をした後の私の記憶が曖昧で、トイフルマイヤー氏との会話は覚えていますが、どうやって、帰宅したのか、全く、記憶にありません。
未熟過ぎた私には、これほどの音楽を「では、もう一度」と簡単に演奏することなど、到底、無理でした。ショパンの音楽に支配され、私は憔悴しきってしまったのです。
ミスタッチを減らし、練習と同じように、技術的なコントロールができている演奏が出来たとしても、それは「表面的なもの」に過ぎず、この無残な演奏と、何ら変わりは無かっただろうと思います。
この音楽を言葉で現すことなど、ショパンと親交のあった、ハイネでも出来なかったはずですし、この音楽を言葉で現そうとすることは、この音楽を冒涜することである、とハイネは解っていただろうと思います。
MASK9.COM - FOR YOU, WITH LOVE.